2014年7月31日木曜日

格闘技は身体レベルからの認知療法

 暴力性や鬱などは、(感情ではなく)「自分の考え方・価値観」からくるものだというものが、日本の比較的進歩的なうつや依存の治療では常識となってきています。(欧米では何十年も前から主流です)

 「認知の歪み」を正し、周囲や自分自身と良好な関係を築いてゆくステップの一つが「認知行動療法」ですが、ただノートに書いたりするだけではなく、実際に行動に移していかないと効果はほとんどないと言われます。
 自分もその通りだと思います。

 ただ、日常の中では、「以前の価値観」がそこかしこにはびこっているものだし、何より自分は「まず頭で考えた(歪んでいない)価値観」に沿って認知・行動してゆくというのが、全然合いません。

 「(歪んだ)認知」というのは、脳ばかりでなく、実は身体そのものに刻みつけられた「(それまで生きてゆくのに必要だった生き方の)記憶」かもしれないとも思います。
 それは条件反射であり、反射を起こすのは、脳ばかりでなく、おそらく身体そのものでしょう。(熱いと思ったら指を離すように)

 「考えるより、感じろ」とはブルースリーの名言ですが、自分はおそらく「格闘技」を通じて「認知行動療法」をしてきたかもしれないと思います。
 そして、認知療法は「生きている限り日常的に続ける」ものであるように、自分にとって格闘技は、そういうものかもしれません。
 
 --例 --

自分はガマンしてでも人を傷つけてはいけない
(正当な欲求の封じ込め)

→コミュニケーションしていれば傷つけあうのはつきもの
ただ、自分は傷つけられすぎる範囲、また相手を傷つけすぎない範囲を知り、それを守ろう



弱い相手は絶対に傷つけず守ってやらなければいけない
(支配的な価値観)

→自分よりも弱い部分がある相手にこのくらい強く攻撃しすぎてしまうと傷ませてしまう
また自分より強い相手からこれ以上やられると完全に傷んでしまう
稽古の中で、相手の強さ弱さ、を見極め、それに応じた力加減を出そう
 また弱いと思っていた相手にもポイントを取られたり、思わぬ動きでやられることがある あなどらず、対等に見よう

 

自分の欲求はすべて受け入れられるべきだ
(自己中心的な縛り)

→自分の出したい攻撃を一方的に出しても、経験のある相手には間合いを読まれかわされ、潰される
また無防備に攻撃することだけを考え近づいても、カウンターを取られ、よりやられてしまう
 相手が何をしたいかを考えた上で、自分がしたいことと、相手のされたくないことをすり合わせてはじめて互いに触れることができる



自分は何をやっても、いくらやっても弱い
(根拠の無い無力感)

→道場に通い、稽古を積むほど、(少なくとも初心者のうちは)強くなる 
実際に組手や試合において、1対1の勝負を繰り返すことで、周囲や自分自身に認められる
 自分は、たとえ裸でも一人でも戦うことが出来るし、価値がある


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