2011年1月5日水曜日

「状況依存」と「ひきこもり」(深夜のグチ)

 ツイッターでイベントお誘いリプ探しがてら、色んな人(主にニートクラスタ)のTLを見ていて思った。

 「ひきこもりは、ひきこもれる状況にいるから出来ること。努力が大事」
 と、元当事者が言っていて、ちょっとだけ”議論”になっていた。
 「正論」だし、よくある考え方だ。
 だけど、わざわざ口に出して、外に言うことでもない。

 それよりも、「ひきこもり」とは「状況」に過ぎないのだと思う。
 (ある種の「うつ」も、各種「問題行動」とされていることも同じ)

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 「ひきこもる」というのが能動的な動詞だったらどんなに良いことか。

 実際には「ひきこもらされる」というのでもなく、「ひきこもっているという状態に甘んじているしかない」という、形容詞に近いものかもしれない。


 僕は「ひきこもる」とは「状況依存」に近いものだと思っている。
 どんなに状況を変えたい(コントロールしたい)と思っても、現在の状況自体に依存しているので空回りする。
 「もう飲まない」と”決意”するアルコール依存のように。


 依存症から抜ける、ということは、「自責→自縛」の悪循環の外に出ることだと思っている。
 今の自分を認めきることも、仲間と会うこともいいのかもしれない。
 だけど僕にとっては「違う状況に移行すること」だった。

 僕の試行錯誤はまだ続いてると思うので、これは深夜のグチだ。

 アルコール依存が「治らないけれども、”飲まない今日一日”を続ける」ように、昔の、自分が苦しんでいた環境から「今日一日」でいいから完全に違う環境に身を置くことだ。
 それを継続する。
 
 「継続する」というのは、修行のようなものだ。
 決意が無いとできない。
 その決意の訪れ方は、僕にはわからない。

 とまれ「継続する」にはまず何よりも、土台の体力がいる。
 ライバルや師匠、仲間など信頼できる人間関係がいる。
 そして「継続する」自由を持ち続けるだけの、経済的力だ。

 依存症者にとって「依存から離れる、たった今日一日」を継続することは、ほぼ人生の一つのテーマのようなものだ。
 修業的かもしれないが、軸ともいえる。
 苦しんだ依存症を、反面生きる指標にするのだ。
 それは、ひきこもりのような「状況依存」でも同じ。

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 依存から離れるには、他にも色々あると思う。
 僕は、おそらく、このタイプだと思う。

 だけど、いつか「”電光石火の早業で@オザケン”何もかも断ち切れるようなコンタクト」が訪れるかもしれないとも思うのだ。

 そんな時を心の片隅にフタをして置きながら「今日一日」が大事とも思い続けるのだ。


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 ひさしぶりに、当事者以外にはわかりにくい、内省的な言葉の羅列かも。

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